ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ... 24 >>
故郷忘(ぼう)じがたし (人情は紙より厚い)
昭和48年3月、新入社員を引率するために鹿児島県へ行った。離島から来る新入生と沖縄からの新入生と鹿児島の新入生を出迎え、とリあえず鹿児島駅から宮崎県の日向まで列車で移動し、宮崎の新入生ともそこで合流し、フェリーで神戸へ、神戸から観光バスで名古屋の新入社員教育会場に入るというスケジュールであった。
出発前日、種子島・奄美大島から来た4名の新入社員を出迎え、鹿児島市内を観光した。4名とも現代っ子らしく、不安も見せず観光を楽しんでくれて私はホットした。ホテルに戻って食事をしながらテレビを見ていると沖縄空港のハイジャック事件が流れた。心配になって沖縄にいるY井君に電話を入れ、沖縄の様子を聞き、合流出来なかった時の打ち合わせ等をして翌日を待った。
ハイジャック事件も解決し、沖縄のメンバーも無事合流して、鹿児島駅に20余名全員が集合した。父兄の見送りも多く、私とY井君は「良い会社ですから心配しないで下さい」と丁寧に挨拶し、列車を待った。しかし、ここで問題が起きた。出発15分前になっても昼食の弁当が届かなかったのだ。私はY井君に「弁当が届いて無いぞ、どうなってるんだ?」と声を荒げた。Y井君は「おかしいですね~、電話してみます」と公衆電話に走った。
弁当屋は出発時間の7~8分前に着いた。私が「遅いじゃ~ないか?何にをしてたんだ」とムッとした顔で言うと、弁当屋の社長は「申し訳ありません」と何度も何度も頭を下げながら「作りたての温かい弁当です。列車に乗ったら、すぐ食べさせてあげて下さい。お願いします。」と言って話を続けた。「私も20年前集団就職でこの鹿児島駅から大阪へ行きました。母は仕事のため見送りには来れませんでした。母一人を残して行く心配とこれからの不安で胸が張り裂けそうな気持ちでした。そんな時、列車に乗って食べた弁当の味、今も忘れません。冷たくて不味く、とても食べれたものではありませんでした。一生懸命頑張って大阪のホテルで修行し、鹿児島に帰ってレストランと仕出し屋を開業しました。その想いがあって、故郷を旅立つ人には温かく美味しい弁当を食べて頂きたくて、どうしても時間ぎりぎりになってしまうんです」と語った。 列車に乗って、皆んなで弁当を食べた。温かくて具が多く本当に美味しかった。
名古屋に着いて、すぐ弁当屋の社長に礼状を書いた。「故郷忘じがたし、人情弁当は故郷の味、社長の思いやり絶対に忘れません。有難うございました。来年も宜しくお願いします」と。
酒無くて何んの己が桜かな!(げん爺さんの思い出 その2)
”散る桜、残る桜も散る桜”と言うが、M公園の桜も満開から、少しづつ散り始めていた。ひらひらと舞う桜の花びらを手に集め、”げん爺さん”はそれを口の中に入れ、酒を呑んだ。「桜の一生は短いが、本当に奇麗だなあ~。年を取ると桜を見るために生きてるようなもんだ。桜の花は体にいいし、心も美しくしてくれる」と言った。その後、本居宣長の和歌は特攻隊の精神であったと語り、戦争で亡くなった同僚や弟のことを思い出を交じりながら私に話した。そして、しみじみと「いい奴ほど、あの世へ早く逝ってしまう」と涙ぐんだ。
「弘前の桜も良かったが、吉野の桜も良かった。高遠の桜はもっと良かった。俺も後何回、桜が見られるかなあ~、S井君!来年もここで桜を見ながら呑もうなぁ」と指きりげんまん迄させられた。
その後もM河屋の一杯飲み屋で”げん爺さん”とは何回も出会った。その時はいつも”げん爺さん”の奢りだった。私が「今日は奢らせてください」と頼んでも、取り合わなかった。「後輩に奢ってもらうほど、俺は落ちぶれてはおらん。でも花見の約束は絶対に守れよ!」が”げん爺さん”の口癖だった。
年が明けて昭和49年、花見の約束もあり、M河屋へ足を運んだが、何時行っても”げん爺さん”の姿をはどこにも無かった。飲み屋の大将に「げん爺さんの顔を見ないが、最近来ないの?」と聞くと、大将が「げんさんは、昨年の暮れ病気で亡くなった」と教えてくれた。
その年、M公園の桜は一段と艶やかで美しかった。私は桜のはなびらを口に入れ、”げん爺さん”を偲んだ。
国民的演歌歌手三波春夫が辞世の句で「逝く空に 桜の花が あればよい」と詠んだが、”げん爺さん”も同じ気持ちであったに違い無い。
酒無くて何んの己が桜かな!(げん爺さんの思い出 その1)
桜の季節になると思い出す人がいる。”げん爺さん”と呼ばれた人だ。私が”げん爺さん”と知り合ったのはM河屋という一杯飲み屋である。M河屋は私の従兄弟が贔屓にしていた店で、酒と肴が旨くて安く、いつも店はお客で溢れていた。
会社の帰りに時間があったので立ち寄ると、不思議な事にその日はお客が疎らだった。店員に「今日はお客が少ないね~」と言うと「桜が見ごろだからね、M公園は花見客でいっぱいだそうですよ」と教えてくれた。すると隣に居た老人が「酒無くて何んの己が桜かな、今日もさけさけ、明日もさけさけだ」と言いながら、私に「俺の酒を一杯呑め」と勧めた。それが切っ掛けとなって、老人と話しをする羽目になった。「若いの!敷島の大和ごころを人問わば、朝日に匂う、山桜花、という和歌は誰が詠んだか?知ってるか」と聞かれたので「本居宣長ですよね」と答えると「お前さん、顔に似合わず学があるじゃあないか」と言い「高校はどこを卒業した?」と聞いた。私が「J館高校です」と答えると「何んだ!俺の後輩じゃないか、今日は俺の奢りだ」と次から次へと酒を注いだ。”げん爺さん”は天辺ハゲで、酒を呑むとき口を尖らせて飲むので、まるで河童のようだった。元高校教師で理科(生物・科学)を教えていたと自慢毛に話した。”げん爺さん”の話は結構面白かった。
時計を見ると8時を過ぎていたので、私が帰ろうとすると、”げん爺さん”が怒ったような顔をして「先輩に恥をかかせるのか!後輩は先輩より先に帰ってはいかん。今からM公園に桜を見に行くぞ」と強引に誘われた。M公園から私の自宅までは歩いて帰れる距離なので、仕方無く同行することにした。
肌寒かったが、M公園の夜桜は奇麗だった。露店で酒と煮スルメを買い、芝生に座って、しばし桜を眺めた。”げん爺さん”が「十五夜お月さん 独りぼち 桜吹雪の花影で~・・・」と”花影”を唄いだした。私も知っていた歌なので一緒に唄った。桜吹雪とまではいかないが、桜の花が何枚も何枚も目の前をひらひらと舞っていた。
失言?(一度放たれた言葉と石は呼び戻せない)
Y沢大臣が「女性は子供を産む機械・・・」と発言し、多くの国民から批判を受けた。私も失言し(自分では失言と思ってないが?)、厳しい指摘と反省を促された思い出がある。
チェッカーの頸肩腕症候群「特別協議会」を迎えるに当たって、私は一睡もしないで対策案をまとめた。その骨格は一年に2回特別健康診断の実施、全員チェッカー制の考えのもと、チェックアウト業務の一時間交代制の導入、認級試験制度の廃止とチェッカー教育内容の根本的見直しであった。各部署と協議し、了解を得たうえで経営会議に会社案として上程した。経営会議では「ここまでやる必要があるのか?」という声もあったが、これといった対案もなく会社案として採用された。
「特別協議会」の日が来た。始めに労働組合の調査内容が提示された。その内容を目にして私は驚いた。腱鞘炎を訴えるチェッカーの数が、私の調査と比べると倍以上の数になっていた。Y尋人事部長が「何んで会社の調査と組合の調査がこんなに違うのか?」と厳しい顔付きで私を見、どちらの調査が正しいのか?説明するよう私に求めた。会社の調査の方が組合の調査より一週間程早く実施されていたので、私は「会社はチェッカー各人に出来るだけ先入観を与えないようにして調査したが、組合の調査は会社が実施した後なので、チェッカーに投射作用の心理(揺れ動き、うつりゆく心理)が働いた結果で、会社の調査よりも人数が増えたと思われる。病気とは気の病(やまい)と書く位だから、おそらく気分的なものが相当左右したものと考えられる。」と発言した。それを聞いて、M山執行委員が机を叩いて激昂した。「気分的とは何んだ?貴方は腱鞘炎で苦しむチェッカーの人達の心が全然解かっていない。それでもチェッカーの教育責任者か?今すぐ発言を撤回しろ!」と迫られた。私の失言?で特別協議会は紛糾した。「これでは不味い」と考え、私は渋々失言を認め謝った。その後長時間協議の末、何んとか会社案を受け入れてもらい、特別協議会は終了した。
給与厚生課のK川課長、H田君と作成した問診票による会社の調査は、正しかったと私は信じている。何故、腱鞘炎を訴える人が倍に増えたのか?今でも疑問であり、納得がいかない・・・
「ことばは心の使い」と言うが、心に思うことが自然にことばに現れるものである。私の発言が失言であるならば、やはり私の不徳の致すところ、人望の無さが原因で増えたのかも知れないと思ったりもした。
チェッカーの職業病!頸肩腕症候群
昭和48年の1~2月は2年続きの全国的な異常暖冬となった。3月は20日過ぎまで全国的に低温が続き、日本海側では降雪が多く、太平洋側では晴天が続き、月降水量が東京では10mm、名古屋では3mmなど異常少雨を記録した。1月にベトナム和平協定が調印されたものの、世界的なエネルギー危機が叫ばれ、世の中全体に暗雲が広がり始めていた。現に天変地異も多く、浅間山の爆発・小笠原諸島の海底火山噴火と新島誕生・根室沖地震などが発生し、関東大震災から50年目ということもあって、社会の関心が地震に向き、マスコミも一斉に地震を取り上げるなどして”地震ブーム”となった。
小売業界にも大きな問題が起った。チェッカーの職業病として頸肩腕症候群がテレビや新聞で大々的に報道され、企業対応のあり方が注目された。U労働組合からも特別協議会の申し入れがあり、多くの質問に対しての回答と会社側の対策を早急に明示するよう要求された。質問の中にはチェッカー教育責任者として、私の指導の仕方を厳しく批判する文面も見られた。私はH尋人事部長に呼ばれ「実態を正しく調査し、その上でチェッカーの健康管理、勤務・作業管理、レジ機種の変更等、会社の対策案を至急提案してもらいたい。但し会社の経営コスト負担が、出来るだけ少なくなるような効率的で効果的な案を作成して欲しい」と要請された。
その要請を受けて、実態調査に入った。各店で1~2名、手・手首・肩などに痺れや鈍痛を訴えるチェッカーが出て来た。頸肩腕症候群とおぼしきチェッカーに対し、一人一人聞き取り調査を行った。若い人よりも35歳を過ぎた女性が多く、意外なことに食品よりも衣料や住関のレジを担当する女性の方が多かった。予想外の結果で頭の中が混乱し、良い対応策が見い出せなかった。
レジスターメーカーに新機種開発状況を問い合わせた。「電子レジスターを開発しているが現段階ではコストが高く、実用化にはもう少し時間がかかる」との答えだった。しかし私はそれ以上にビックリする記事を目にした。それはアメリカのPOSレジ開発研究の記事であった。。レジを打刻するのでは無く、光電で値段を読み取るという画期的なものであった。もしそのPOSレジが開発されれば、腱鞘炎問題は簡単に解決するとそう思ったが、あまりにも夢のような話で、本当にそんな事が実現できるのか?期待よりも眉唾意識の方が強かった。